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座談会:「社会のなかで生きる哲学2022」を振り返る(後編)

イベントレポート

「社会のなかで生きる哲学2022」の振り返り、後半です。前半は以下の記事からどうぞ。

座談会:「社会のなかで生きる哲学2022」を振り返る(前編)

いま、「社会のなかで生きる哲学」を考える

山本:カフェフィロは2005年の設立以降「社会のなかで生きる哲学」というスローガンを掲げ活動してきました。今回の企画は、いまの時代にこのスローガンがどのような意味をもつのかを改めて考えたいという意図をこめたものでもあります。今回の企画の経験を踏まえ、みなさんともこの点についてあらためて話し合ってみたいなと思います。

井上:まず、「社会のなかで生きる哲学」とはどのような意味なのかが気になっています。哲学が主体であるようなイメージなのでしょうか。それとも人が主体なのでしょうか。

松川:カフェフィロの設立当時は、大学の研究室から哲学は外へ出ようというニュアンスで、あくまで哲学が主語として考えられてきたように思います。ただ、改めて考えていくと、社会のなかで生きる哲学を実現していくには、人が主体になっていくことが必要だという面もあると思います。

山方(Philosophy愛知):これまで色々な哲学カフェの実態を見てきましたが、最初は松川さんのいうように大学の研究室から外へという「アウトリーチ」の意味合いが強かったように思えます。ただ、現在では「哲学」の意味合いがアカデミックなものだけでなく、かなり広がっているように思えます。

印象的だったのは、ある会に出たときに参加者から「哲学カフェでは社会のことは考えたくない」という意見が複数あったことです。半径5mというか、日常生活の出来事に関係する話題にテーマをしぼりたいという意味合いです。このような考えでなされる哲学カフェは「社会のなかで生きている」といえるのか、ちょっと疑問があります。

山本:山方さんのお話と関連して、哲学カフェでいわゆる社会問題を直接扱うとうまくいかない、という意見も結構あると思いますね。「社会」といったときに、それはいわゆる社会問題なのか、日常生活のことなのか、どちらを念頭に置くのかということでもあると思います。みなさんはどうお考えでしょうか。

寺井:哲学カフェで社会問題のようなテーマを問うことで、社会が変わるという考え方もあると思いますが、社会問題に直接関係ない話題であっても、哲学カフェを継続することを通して参加者が変わっていき、結果社会の変容になるという考え方もできると思います。

松川:逆に、社会に関わらないテーマってあるんだろうか、とも思うんですよね。どんなテーマであっても、社会や世界のことを地に足つけて考えられるような場になればよいなと思います。今回の企画ではフラワーデモについて考え、今後の実践や行動の上でのヒントを得られたという方もいらっしゃいましたが、それ以前に、このような場を開くこと自体に孤立を防ぐなどの社会的な意味合いもあるように思えました。

井上:なごテツからスピンアウトした「おなごテツ」という女性限定の哲学カフェを開いています。「おなごテツ」では女性同士で身近なことを話し合っていくことで解放されていくような感覚があったりするのですが、一方でフェミニズムのように社会の問題を知ることで個人へと接続していくことの大切さも感じ、両方の方向の重要性を感じます。

山本:たしかに、「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムの考え方と、「おなごテツ」のような哲学カフェはつながっているようにも思えますね。一方で、山方さんの指摘にも関連して、哲学カフェは本来社会的なものであるできごとを個人化してしまうものなのではないか、という問いもまた考えるべきものであるように思えます。

ところで、みなさん今回の企画をやってみて、普段の哲学カフェとの違いを感じたところはありますか?

山口:先ほどお話しした通り、主催者としてはいつもと同じようにできたと思っているんですが、参加者がどう感じたのかというのが気になりますね。

高橋:なごテツの会に参加者として参加したのですが、哲学カフェの安全を考える際に参加者の安全が念頭に置かれていて、進行役や企画者の安全はあまり話題に出ませんでした。参加者と主催者でそういう視点の違いはあると思います。

山方:今回の企画もほとんどの会に参加したのですが、特に社会的な問題を考えるときには、哲学カフェでそれぞれの経験を共有するだけでなく、その先に何ができるのか、ということが気になりました。

松川:今回、カフェフィロメンバーで話し合った結果、コロナウイルスの流行などの社会的な情勢を踏まえて「安全」がテーマに選ばれたのですが、例えば東日本大震災や福島第一原発の事故の直後だと「安全」というテーマは設定しづらかったと思います。
そのときにも安全に関連する哲学カフェはありましたが、その際は「見えないものはなぜ怖いのか」(2011年9月13日中之島哲学コレージュ)という問いのように、少し距離を取ったようなテーマを設定していました。今回と何が違うのだろう、ということが気になります。

山本:なるほど、実際に起こっている問題とどのように距離をとるか。

松川:考えたい問題がある場合に、単純にその問題を扱うことで色々なアイデアが得られる場合と、直接その問題を扱うと話し合いが硬直しそうな場合があると思います。後者のような場合、問題から距離をとったテーマを設定しているような気がします。

これは、考える場所によっても変わってきますね。哲学カフェ尾道でも初めは無難なテーマを選んでいたなと振り返って思います。場が育つという側面もあって、これが例えば学校に1回だけ訪問して対話する場合との違いでもあります。

安本:今回、事前のテーマを決める際にも話題になっていたのですが、ある種の問いが設定された時点でそこに拒否反応を示す人もいると思います。「見えないものはなぜ怖いのか」というように距離を取ることが安全な問いだ、という感覚についても、実は考えるべきところがあるようにも思えます。

山本:今改めて考えると、「見えないものはなぜ怖いのか」のような問いは、ある意味(距離を取るという)主催者側の意図や立場が透けて見える問いでもあると思います。誰がどこで問うているのか、ということについても考える必要があるように思い、このことも「社会のなかで生きる哲学」を考える上で大切なポイントなのかなと思います。


前後編に分けて座談会の模様をお伝えしてきました。今後もカフェフィロでは現代的な問題として「社会のなかで生きる哲学」のあり方を考えてきたいと思います。

(おわり)

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