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【ヤマモトが行く】第五回:辻明典さん(てつがくカフェ@南相馬)

ヤマモトが行く

山本です。各地で哲学カフェを実践するカフェフィロメンバーを訪ね、インタビューする「ヤマモトが行く」。今回は福島県南相馬市で「てつがくカフェ@南相馬」を開催している辻明典さんにお話を伺いました。

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今回のテーマは「震災と暮らしを考える」。東日本大震災及び福島第一原子力発電所の事故により大きな被害を受けたこの地で、改めて「暮らし」について考えてみようという試みです。当日は地元の方々も含め、10数名が参加されていました。震災の被害の話に胸が詰まる場面もありましたが、とてもあたたかく、和やかな雰囲気のなかで対話が進んでいました。当日の様子に関しては辻さんがHPに報告を書かれていますのでこちらをご覧ください。

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↑会場の南相馬市図書館

「なりわい」としての哲学カフェ

山本(以下「山」):今日の哲学カフェに参加してみて、場の雰囲気がいいな、と思いました。辻さんの学校の生徒さんが参加してくれたりして、なんというか独特で、辻さんならでは、という感じがしました。

辻:生徒さんが来てくれたのは今日が初めてですね。とても嬉しかったです。遠くから様子を伺っている子どもたちもいました(笑)

山:この会場は開けていて、通りすがりの人が哲学カフェの様子を見たり、飛び入りで参加したりしやすい環境にありますよね。僕もこんな感じに開かれている場で哲学カフェをするのが理想なのですが、なかなかこのような場を見つけるのは難しいです。

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↑てつがくカフェが開かれている交流広場(公式HPより)

辻:大人がしていることを子どもが見ている、というのは結構大切なことだと思うんですよね。僕の実家はこの近所にあった酒屋で、僕は小さい頃から大人が働く姿を見ていました。店番をしていた親や祖父母が、お客さんが来たら口調が変わる姿を見たり、軽トラに乗せてもらって、お酒の配達についていったりしながら、大人が働く姿を肌で感じながら育ちました。僕は哲学カフェに関しても、自分たちが何やっているのかを、子どもたちに遠くからでも眺めてほしいと思っています。「こんな風に大人は話すのか」とか「対話ってこんな感じなのか」とかいうことを感じてもらうことも、大切なことではないかと思います。

仕事と聞くと「お勤め」をイメージする方は多いと思います。でも、土地に根ざした「なりわい」だってあるはずです。家で味噌をつくるとか、大工仕事をするとか、一緒に祭りの準備をするとか、その土地にとって当たり前の風景がある。哲学カフェも僕にとっては「なりわい」のようなもので、この土地に根ざしてやっていきたいと思っています。

言葉で距離を取るということ、言葉が生きているということ

山:辻さんの実家は会場のすぐ近くですけど、これほど家の近くでやっている人は珍しいんじゃないかと思います(笑)。僕だったら自分の家の近くで活動するのはなんか気恥ずかしくて、どうしても少し離れた会場を選んでしまいます。知り合いとか来たりしないんですか?

辻:たくさん来ますね。母が参加したこともあります(笑)だいたいみんな知り合いで、その人のことをよく知っているから、逆に距離を取ることの難しさはあると思います。なにしろ「なりわい」ですから距離が近すぎる。

僕が哲学カフェで言葉を大事にしているのは、言葉を使うことで出来事から距離を取りたいと思っているからです。言葉にならない要素も大切だけど、言葉を使って適切な「間合い」を取ることをこの場では重視したいと思っています。

山:なるほど。僕も最近、言葉ってやっぱり道具なんだなぁと思います。ある人から発せられた言葉は発言者のもとを離れて、他の人が考えるための道具として働いていますよね。哲学対話ではコミュニティボールを使ったりしますけど、言葉もまさにボールと同じように、ツールとして機能していると思います。

辻:一方で、南相馬の哲学カフェでは言葉が「生きている」気もするんですよね。例えば「山」といったときに、みんなが共有されている「あの山」の情景がぱっと浮かぶ。「あそこで山菜が採れたなぁ」とか、言葉と情景が結ばれているような感じがします。

今日も「お神楽」や「臼」の話がでましたけど、僕たちは「臼」と聞いた時に形や手触りがイメージできて、木の臼だったら運びやすいけど、石の臼だと運ぶのが大変とか、そんなことまで思い浮かぶんですね。臼を実際に見たことがない人には、イメージしづらいと思いますけど。こんな感じで、なんというか、言葉に「厚み」があるような気がして、これが土地に根ざした言葉なのかなと思います。

山:先程の「間合いを取るための言葉」とは少し違った観点が現れているようで興味深いです。いずれにせよ、都会の哲学カフェと土地に根ざした哲学カフェでは、言葉の性質や役割が少し違うような気がしますね。

今日の哲学カフェでは「非日常と日常」というテーマが出ましたが、これは都会の哲学カフェでも出てきそうなテーマだと思います。哲学は普遍的なテーマを扱うので、どこでも同じような問いがでるのはある意味当たり前だといえますが、見かけ上は同じ問いでも、そこに織り込まれているものは全然違うような気がするんですよね。問いにも「この場所ならでは」という固有性があるんじゃないかと思います。辻さんの仰る「土地に根ざした」言葉がその固有性を考えるヒントになるような気がしました。

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↑当日の言葉をまとめたホワイトボード

哲学カフェとユーモア

山:「震災」に関わるテーマで哲学カフェを開くのは今回久しぶりですよね。

辻:やっぱりテーマが暗いですよね(笑)今日も、どうすれば場が和むか考えていました。僕は哲学カフェで笑いを取りに行くことが多いんですが、話しづらい雰囲気のときにユーモアを挟んで、でも本質は離さない、そういう対応をしたいと考えています。

山:哲学カフェとユーモアの関係、面白いですね。笑いが絶えない状態のほうが、雰囲気だけでなく、対話の中身もよいものになるように思えます。なんとなく笑っているときは自分のガードやブレーキが緩む気がして、その方が一緒に考えやすくなるのかもしれません。

辻:先程の話に戻るんですけど、大人が楽しんでいる姿を、子どもたちに見せることも大切だと思うんですよね。一方でどんなテーマで話しても、この場所では震災の話につながりますし、大変だ、辛いと発言できる場も必要だと思います。でもそれがカウンセリングのように閉じた場ではなく、こんな感じで開かれているほうがいいと思うんですよね。それが街をもっと「懐の深い」ものにすると思います。

いかがでしたか?私自身も今回「土地に根ざした」探究を考える上で多くのヒントを得ることができました。また南相馬を訪ねたいと思います。辻さんありがとうございました!

(ヤマモト)

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