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【ヤマモトが行く】特別編:オープンミーティング@Tokyo(後編)

ヤマモトが行く

4月に東京で開催されたカフェフィロオープンミーティング」での対話の様子をお伝えします。今回は後編です。前編は下記からご覧ください。

【代表が行く】特別編:オープンミーティング@Tokyo(前編)

「待つ」だけでいいのか?

参加者:「哲学とともに生きる」というのはシンドイ面もあるんじゃないでしょうか。抱える問いが重すぎた場合に生きづらくて、考えるのをやめてしまうこともある。

また、お二人の先ほどの話は「待つ」ことが前提になっていると思いますが、果たしてそれで十分と言えるのか、という疑問があります。アプローチするとすればどのようなやり方があるんでしょうか。

山:今の話を聞いて、街中の人に話しかけていたソクラテスのやり方が思い浮かびました。でも今の時代、例えば池袋の路上で同じようなことができるかというと難しいとも思います。たしかに、問いを抱えて生きるというのはシンドイ面もあると思いますので、「待つだけでいいか」と言われると正直悩みます。

「待つ」のではなくアプローチするというのは、僕にとっては悩んでいたり苦しんでいたりする人のそばに行って、一緒に悩みつつオロオロするイメージですね。誰かの元に行っても、多分あまり役には立たないんですけど。

川:なんか宮沢賢治みたいですね(笑)

山:頼まれていないのに勝手に困っている人のところに行って、しかもオロオロしているっていうのはかなり迷惑ですけどね(笑)

参加者:他の人と話したりすることでシンドさが減る、ということはあると思います。話すことで問題との距離が生まれるような感じがします。あと、カフェフィロとかアーダコーダはHPや本などの媒体で活動を紹介しているので「待っている」だけかと言われると少し違うような気もします。

山:話すことで問題との距離が生まれる、というご意見を聞いて、もしかするとそれは「問い」をつくることとイコールかもしれないと思いました。悩んでいる人の中で、何かがモヤモヤしていてまだ「問い」の形になってない場合は、特にシンドイのかなと思います。そうして考えると、悩んでいる人のところに行って、モヤモヤを問いの形に言語化する程度の助けならできるかもしれません。

川:僕は「待つ」という言葉ではじめ「峠の茶屋」をイメージしていました。自分から麓におりてわざわざお客さんを呼び込みはしないけど、登ってきた人に対しては茶団子をだす、みたいな。

今の話を聞いていると、それが少し変わってきて、「鍛冶屋」みたいな感じかなと思いはじめました。お客さんの持って来た「素材」(=悩みやモヤモヤ)を、自分たちが何か別の形に加工する感じですね。例えばお客さんが鉄を持ってきたとして、こっちが鉄パイプを作ったとすると、「これが欲しかったんだ」という人もいれば、「いや別にそんなのが欲しかったんじゃない」と帰る人もいる。

苦しみや悩みに対して「言葉」が欲しい人にとっては哲学が必要になるかもしれないけど、何か別のものを求める人もいると思います。同じ人でも、その時のコンディションや年齢によって必要なものは多分変わってくる。だから自分たちが悩みを「問い」の形にするとしても、必ずしもそれが受け入れられるとは限らないと思いますね。

参加者:先ほど一分間で哲学カフェを伝えられるか、ということを聞いたものです。意図としてはセールストークというよりも、自分たちをやっていることが外に対してきちんと伝えられるか、そういうアイデンティティの問題として尋ねました。カフェフィロにはそういうものはあるんでしょうか。外から見ていると、カフェフィロが何をしようとしているのかイマイチ伝わってこない印象があります。

参加者:アーダコーダはNPOだがカフェフィロはそうではない、ということがまずあるんじゃないかなと思います。色々な人が集まっているから、輪郭がはっきりしない。あとNPOならメンバーに入りたいと希望すれば大概入れるけど、カフェフィロは希望しても簡単にはメンバーにはなれないですよね。そういうところも閉鎖的に見られているんじゃないかと思います。

山:いただいた意見は、まさにその通りだと思います。このミーティングを開いたのも、カフェフィロとして輪郭をはっきりさせる必要があると考えたからです。その際に、外から見たカフェフィロの姿を今みたいに教えてもらうことで助けになるのではと考えています。

川:アーダコーダはNPOだし、ミッションとかはある程度固まっています。カフェフィロがアーダコーダのミッションとかやっていることを叩き台にして、どこが同じか、どこが違うか考えてみるのも一つの手じゃないかと思いました。

「社会のなかで生きる哲学」とは?

山:時間がなくなってきましたが、もう一つのテーマに移りたいと思います。カフェフィロは「社会のなかで生きる哲学」を探究する、ということをスローガンとして掲げています。先ほど「哲学とともに生きる」ことについて話しましたが、「ともに生きる」と言うときと、「社会のなかで生きる」と言うときの「哲学」は少しニュアンスが違うように感じます。この辺りを皆さんと考えてみたいなと思います。

参加者:哲学そのものが危機的な状況で、大学に研究者のポストがないとか言われています。だから哲学に対する理解を社会に広める必要があると言われているんじゃないかなと思います。でも「社会のなかで生きる」と言っても哲学を研究する人、哲学をする人、哲学を支える人、などいろいろな立ち位置があるのではとも思います。

参加者:哲学をはじめとした人文科学には頑張って欲しいと思っています。これから人工知能が発展することを考えると、倫理的な面での哲学の役割も期待しています。

山:今のお二人のお話は、学問としての哲学がどう生き残るか、と言うことに関する意見だと思います。「社会のなかで生きる哲学」といったときに、自分はそのような観点をあまり意識していませんでした。

自分がはじめて哲学カフェに行ったとき、自分が学んでいた哲学の知識が参加者の経験に基づいた意見によって「色づく」ような感覚を覚えました。灰色のものに命が吹き込まれるようなイメージです。「哲学が生きる」というのは自分の中ではそういうことなのかな、と考えていました。

参加者:「社会のなかで生きる」と言うけれど、哲学は本来「非社会的」なものじゃないかな、と疑問に思ったりします。

山:確かに、哲学は毒を持っているというか、社会や人を成り立たせる根本を疑うこともできるので、非社会的な側面はあると思います。でも非社会的な側面しかないと言われると、そういうわけでもないとも思っています。個人的には哲学のもつ社会的な要素を大事にしたいと思っています。

参加者:日本の慣習的な文化の中で生きている人たちにとって、哲学的な視点は疎まれるものなんじゃないかな、と思っています。「社会のなかで生きる」というときにはグローバルな社会での活動がイメージされているんでしょうか。

山:哲学は普遍性への志向を持つので、グローバル的なものとの親和性が高いとは言えると思います。一方で哲学カフェは都市だけでなく地方でも様々な形で開かれていますので、ローカルなものとどう関係するか、というのは個人的に今後考えていきたいテーマではあります。

川:「社会のなかで生きる哲学」と言ったときに、その社会がどういう風土かによって、哲学の活かされ方が変わってくると思います。日本のように島国で、他の場所に移動する必要がなかった社会と、西洋のように資源を得るために移動して、他の民族と折り合いをつけなければいけなかった社会では、哲学の位置付けは大きく異なってくる。だから日本のような風土では哲学のどの側面が生きてくるのか、ということを考える必要があると思います。

おわりに

今回のオープンミーティングでは、ここに紹介しきれなかった分も含めて、参加者の皆様からたくさんの意見をいただきました。いずれも今後のカフェフィロの活動を考える上で参考になる貴重なご意見でした。ゲストでご参加いただいた川辺様、参加者の皆様ありがとうございました!

9/2(土)には大阪でもオープンミーティングが開かれます。ここでも皆様と一緒にカフェフィロの大切にするものについて考えていきたいと思います。ご参加をお待ちしております!

カフェフィロオープンミーティング@OSAKA


(おわり)

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