哲学カフェ「備える」開催報告
こんにちは、まつかわです。
昨日は、岡山大学のまちなかキャンパス・城下ステーションにて哲学カフェを開催しました。
テーマは「備える」。
こんなテーマで台風に直撃されたらどうしようと心配しましたが、進度が遅かったおかげで無事開催できてほっとしました。
最初に、このテーマを提案してくれた参加者に理由を尋ねてみました。
6月の「震災を考える哲学カフェplus」で話題提供してくださった前田芳男さん(岡山大学准教授。熊本地震の被災者で、防災やまちづくりの専門家でもあります)の「必ず想定外のことが起こる」という話をきいて、「それなら、なんのために備えるんだろう?」と疑問に思ったとのこと。
今回は純粋に参加者としてきてくださった前田さんが、「被災して、人は自分にとって都合のいいように想定するんだと思った」と補足してくださってスタートです。
前半は、防災や「絆創膏を持ち歩いているのに、もっていることを忘れてまた買ってしまう」といった例から、「備えるとはどういうことか?」について次々と意見や論点がでてきました。
- 全ての可能性に備えることはできないので100%の備えというのはありえない
- 100%起こるとわかっていたら、それは「備える」ではなく「準備」ではないか
- 備えるのは安心のためで、実際に役立つかどうかはまた別
- 備えるには過去の経験やデータが必要
- 思いもよらないことには備えられないのでは?
- 集団の備えは「何かあったらリーダーが判断する」と想定外のときのための備えにあたるのでは
あまりにテンポよい展開だったので、途中で「一度、これまでの論点をふりかえって、何を一番話し合いが考えてみて」と参加者にお願いします。そのおかげかどうかわかりませんが、後半は、「備えるとはどういうことか?」からもう一歩深く、その前提を掘り起こすような論点がでてきました。
まず、「想像する」ということについて。
「過去の経験から学び、未来を想像するという能力は人間特有のもの」と主張したうえで、科学という知のあり方について論じる方がいる一方で、障害者の避難の問題から、具体的にイメージすることの難しさを指摘する声もありました。ちらりと浮かび上がった、マニュアルとシミレーションの違いも、興味深かったです。
それから、「備えるというのは、明日も生きてるだろうというポジティブさがないとできない」という指摘。私は「備えるのは、不安だからだ」というちょっと暗いイメージがあったので、「備える」という行為がポジティブな前提をもっているというのは、うれしい発見でした。
さらに、「未来に備えてばかりだと自由がない気がする」という意見。ここから、「自由」と時間軸との関係についても少しですが考えることができました。
最初は、防災や救急箱、貯金といったイメージからはじまった哲学カフェ。
しかしその前提を掘り起こすうちに、「『いい学校、いい会社に入れ』というのも一種の備えでは?」と、「備える」という概念のイメージがぐっと広がったのが面白かったです。
また、「備える」という一つの行為から、時間や自由、人間の認知の限界など、古くから哲学者たちが何度も論じてきたテーマについて考えることができました。
複数の論点が並走・交錯したり、思わぬところで議論がぐっと話が深まったり、会場の前を突然青鬼が通り過ぎ、「えええっ!想定外!」「鬼がきたときの備えなんてしてない!」なんて驚く場面があったり、(おかしな言い方ですが)とても哲学カフェらしい哲学カフェだったと思います。
雨のなかご参加くださったみなさん、ありがとうござました。
- 今回の参加者数:10人
- 今回のカンパ:3,266円