特別企画「手紙で考える」vol.1(Tさん&山本)
こんにちは。カフェフィロの山本です。
コロナ禍の影響で様々な活動が中断を余儀なくされた今年。
カフェフィロでも一時期ほとんどの哲学カフェが休止を余儀なくされました。
このような状況の中でオンラインでの哲学カフェという新たな試みが広がりましたが、これまでカフェフィロの哲学カフェに参加していた人の中には自宅にネット環境がない方も少なからずいらっしゃいました。
オンラインの哲学カフェに参加できない方たちとも一緒に考えることはできないか。
そう考え、カフェフィロでは春から一部の方々と「手紙」のやりとりをはじめました。
参加者にはコロナ禍で中断している活動のうち、「あなたが再開を望むもの」もしくは「再開を望まないもの」とその理由(※)を挙げてもらい、それをきっかけにカフェフィロメンバーと紙上でのやりとりを行ないました。これから数回にわたりそのやり取りを掲載していきます。
はじめにご紹介するのは「休止された授業」から「学び」について考えることになった手紙のやり取りです。
2020年6月XX日
カフェフィロ事務局御中
再開を望むもの、それは授業です。
その理由は、私は73才ですが4月の春学期に旧約聖書入門の科目を聴講することになっていたのですが、6月末まで学校が休業状態(図書館も閉鎖)になっています。
4月21日よりオンライン授業が開始とのことですが、わが家にはその設備がなく、受講料返還の手続きをしました。
これからの時代は学ぶものとしてオンラインが当然なのかもしれないとは思いますが、秋学期からは授業が再開することを望んでいます。
7月XX日
Tさま
カフェフィロの山本と申します。お手紙ありがとうございます。
世間では少しずつ、いろいろな活動が再開するようになってきました。
図書館は比較的早くに閉鎖されてしまいましたが、私の住む京都では再開も早かったように思います。
それはやはり「学び」の機会を奪ってはならない、ということが社会に共有されているからだと思います。
一方で人が集まる授業に関してはまだまだ制約が大きいと感じています。
旧約聖書入門の科目を聴講することになっていたとのことですが、Tさんにとって図書館などで本を読むことと授業を受けることはどのような違いがありますでしょうか。
それらは同じ「学び」なのでしょうか。お考えを聞かせていただければうれしいです。
暑くなってきましたが、どうぞご自愛ください。
山本
7月XX日
カフェフィロの山本さんへ
“授業と読書のちがいについて”
私にとって授業を受けるということは、いわば師匠から秘伝を授かるみたいなもので、先生の人間性からくる熱意というか迫力によって解った気になれるのが授業だと思います。
本を読んでも真理は学べますが、それは自らの体験をベースに自らのイメージで理解しているので正しく受け止められているかが問題だと思います。
授業も自分のイメージで聞いているので同じですが、“あれっ”と思ったとき質問ができるので、より深い理解に至れると思います。
自らの人格の向上につながらないものは知識であって学びとはいえないと考えているからです。
雨が続きますが、元気でお過ごしください。
8月XX日
Tさま
お返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
授業と読書の違いについてのご意見、興味深く読みました。
「自らの人格の向上につながる」のが学びであって、そうでないものは知識を得ただけにすぎないというTさんの考えには納得できるものがあります。
思うに、自分の経験やイメージの範囲で理解ができるものを得るだけでは学びとして十分ではなく、自分の枠組みを外してくれるような、それを超えてくるようなものに出会ったときに、学びはよりよいものになるのではないでしょうか。
そう考えると「学び」と「出会い」は本質的に深くつながっており、人と出会い質問や意見交換ができる授業のような学びの場は、やはり重要なのだと改めて感じました。
危険なほどの暑さが続くようになりました。ぜひ体調にはお気をつけください。
山本
Tさんとの手紙のやり取りはこのような形になりました。
久しぶりに手紙を書きましたが、何よりもまず手が疲れたのを覚えています。
相手の書かれたことに向き合い、自分の意見をゆっくりとまとめる経験は、普段の哲学カフェでのやり取りとはまた異なった貴重な時間だと感じました。
他の方との手紙のやり取りも順次公開していきますので、次回をお楽しみに。
(やまもと)
※このテーマはフランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールがコロナ禍に掲載したアンケートに着想を得ています。